東海道新幹線の歴史や遺産車両

~東京駅の東海道新幹線ホームの秘密~

東京駅に3本ある東海道新幹線ホームのうち、14、15番線の1本のみが、西隣の東北新幹線ホームに沿うように北端がカーブを描いています。

~曲がったホームの理由は?~

このホームは、東海道・東北の両新幹線用として、1975年と1979年に使用が開始されました。しかし1976年度の東京~盛岡間開業をめざした東北新幹線は、石油危機による物価高騰と大宮以南通過予定地での激しい反対運動によって、東京延伸のめどが立たなくなってしまいました。
東京開業が実現した1991年6月には国鉄がすでになく、新幹線も東海道がJR東海、東北がJR東日本と別会社の路線になっていました。当初の計画どおり新幹線ホームをもう1本増やして12、13番線としたものの、14、15番線とともに東海道・東北の両新幹線で共用することは、直通運転を含めJR東海の反対で立ち消えになったといわれています。
そのためJR東日本は、中央線ホームを重層化してもう1本の新幹線ホームを作らざるを得ず、新幹線の乗客は、東京駅で必ず乗り換えることになりました。これも国鉄分割民営化による弊害のひとつです。

~計画のみで終わった新幹線貨物輸送~

東海道新幹線の建設時には、貨物輸送の計画も発表されていました。東京・静岡・名古屋・大阪付近に貨物駅を設置、5tコンテナを150個積んだ貨物列車が夜の東京~大阪間を5時間半で結び、各駅ではコンテナを在来線やトラックに積みかえて、貨物の大量超高速輸送を実施する予定でした。
しかし、新幹線建設の事業費調達と事業担保を目的とした、世界銀行の融資を引き出すための説得材料であって、実行する気はなかったようです。仮に旅客輸送が不振であれば、実際に貨物列車が走ったかもしれませんが、好調な利用で旅客列車が増発に追われる状況では、出番が失われても仕方がありません。
その新幹線貨物輸送計画の痕跡が、いまでも残っている場所があります。京都~新大阪間、大阪府摂津市鳥飼の新幹線鳥飼基地の東側で、新幹線の高架橋を上方でまたぐ無用の高架橋が、その唯一の名残りなんです。

~岐阜羽島駅は本当に政治駅なのか?~

新幹線の当初計画になく、周囲に大きな都市のない田んぼの中に現れたのが、東海道新幹線岐阜羽島駅です。駅前に当時の自民党副総裁である、大野伴睦代議士の銅像が建つこともあり、地元政治家が作らせた「政治駅」と見なされます。しかしこの説には異論もあります。
1959年着工の新幹線を、1964年の東京五輪までに開業させるには、戦前の東京~下関間「弾丸列車」計画で検討された名古屋~京都間を直行する鈴鹿山脈トンネル案では工期がかかり間に合いません。そこで、豪雪地帯である関ヶ原を経由する現在のルートを採用、雪害に備えて、予備のホームと保守車両基地を備えた駅を設け、輸送の確保に備えました。岐阜羽島駅の存在価値はここにあり、国鉄が岐阜県と地元政治家の顔を立てたのが実態といえるでしょう。

~新大阪駅の未完成ホームは新幹線用?~

東京方面行の新幹線が発着する新大阪駅の26番線に立つと、その向こう側に帯状の空き地があり、錆びた橋脚やホームらしき構造物が見えます。これは、阪急電車の未開業線の残骸なんです。
阪急電鉄は梅田駅の混雑緩和、新幹線駅への接続、京都~神戸間の直通運転を目的に、新大阪連絡線7.0kmを1961年に着工しました。しかし地価高騰による用地買収の難航に加え、新大阪界隈の発展の遅れにより、開業予定時期は先送りにされ続けます。
そしてついに2003年3月、全線の整備をあきらめて一部区間の工事を正式に取り止めました。新大阪~十三間2.3kmの建設は継続中の扱いのままですが、工事が始まる雰囲気はありません。これらの用地は、駐車場や小学校などに転用されています。

~インフォメーション~

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