ブルートレイン~寝台特急の栄枯盛衰~

~Blue Trainの愛称は、客車を使用した寝台列車~

1956年11月に登場した東京~博多間の特急「あさかぜ」、12年ぶりの東京~九州間直通特急は、京阪神地区の停車時間帯を深夜の1~3時台に設定したことが、当時大きな話題になりました。

~常識を覆す夜行特急列車の誕生~

当時は新幹線も高速道路もなく航空路は高嶺の花、鉄道は交通の王者であり、1000kmを超えるような長距離の利用も多くありました。長距離列車は必然的に夜通しの運転を強いられましたが、大都市圏である京浜、京阪神、北九州地区に利用しやすい時刻で運転することは、長距離列車の大前提でした。
そんな状況で登場する「あさかぜ」の非常識な時刻設定に、当時の国鉄・大阪鉄道管理局は当然のごとく猛反発します。しかし京浜地区と北九州地区では歓迎されて、実際の利用も絶好調、以後はその仲間を増やしていくことになります。

~常識ばずれの豪華客車の登場~

当初は手持ち客車の寄せ集めで運転されていた「あさかぜ」に、1958年、新型客車「20系」が導入されます。
当時は鉄道でも一般社会でも贅沢だった冷房装置を三等車も含め全単に完備し、凝ったデザインの食堂車や改良された寝台も備えており、「走るホテル」と絶賛されました。
また、車両を検査修繕や車内設備を含め、車両単位ではなく、編成の単位で一括管理する手法が初めて導入されました。これは、以後の鉄道車両管理の常識となります。
見事な弧を描く丸屋根を載せ、青色に塗られ白帯を締めた車体は、渋焦茶色に塗られたうえ、蒸気機関車の煤煙で汚れていた当時の他の客車になかった美しさで人々を魅了しました。数両だけ連結された座席車も後に寝台化され、ここに寝台特急「ブルートレイン」の呼称が生まれることになります。
ブルートレインは、その後の高度経済成長や鉄道の近代化に乗って、順調に運転路線を拡大し本数を増やしていきました。

~常識を超えるブルートレインの人気~

1970年代後半、蒸気機関車の全廃で次の趣味対象を求めていた大人たちと、スーパーカーブームに飽きてきた子どもたちの目が、いっせいにブルートレインに注がれました。これが世にいう「ブルートレイン・ブーム」です。
東京駅などでは、駅のホームが満員電車になったように大勢のファンがカメラを片手に集まり、関連本が書店をにぎわせ、その過熱ぶりは社会問題になりました。
しかし、皮肉なことに国鉄の経営はさらに悪化します。1976年11月の運賃料金大幅値上げを境に、利用者が激減し、寝台特急もダイヤ改正のたびに運転本数を減らしていきます。一方でそれを逆手に取り、3段寝台の2段化、個室寝台の再登場やロビーカーの登場といった、列車にゆとりや魅力を持たせる改善も進みました。 その頃はまだ、新幹線とブルートレインは国鉄の花形列車でした。

~常識では考えられない夜行特急列車の無策~

国鉄は1987年に分割民営化されたが、新会社にその花形列車を引き継ぐべく、新幹線には2階建車両を、ブルートレインには内装を一新した食堂車や寝台車を残しました。その後、新幹線は新車投入や速度向上に路線延伸と、今もJRの花形列車であり続けています。
しかしブルートレインは、その運転区間が最大4社に分かれたことで、JR各社の意見の統一が困難となり、その車両や時刻は、改善もされず放置されました。そして、新幹線や昼間の特急の高速化や車内快適性の向上、高速バスの充実に航空路の増便や運賃低下、さらに寝台車の老朽化により、毎年1割ずつ利用者を逃がしていくことになります。
JR発足当時には毎晩23往復もあった寝台特急は、減便と利用者減少の悪循環で、2004年には約半数の13往復分に。花形路線である東京~九州間は、2005年3月のダイヤ改正でついに「はやぶさ」[富士]の併結列車1往復に減少します。ブルートレインの衰退は、国鉄分割民営化の弊害のひとつであるかもしれません。

~インフォメーション~

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